今日からドイツ語の勉強も兼ねてエルンスト・ユンガー『鋼鉄のあらし(In Stahlgewittern)』(1922, Berlin)の翻訳を不定期に掲載していきたいと思います。主に自分が三日坊主にならないために書いていますので,このブログの訪問者の方々に見せることを特に想定したものではありません。MtGに関しての記事はまた機会があれば書きたいと思います。

エルンスト・ユンガー『鋼鉄のあらし』(1922年,ベルリン)

前書き(前半)

 いまや,途方もないものの影が我々の上にかかっている。戦争の激しさはいまや,我々にとってあまりにも身近なものであるので,我々はその全貌を見渡すことができない。ましてやその精神を可視的なものへと結晶化することはできない。それでも,人は現象の洪水,つまり物質の卓越した意味から常に,はっきりと,立ち上がることができる。戦争は消耗戦の極致へと達した。機械,鉄,爆薬がその構成要素であった。個々の人間は資源として見なされた。部隊は前線の火点 で何度も繰り返し,燃えがらになるまで焼き尽くされては撤退し,定められた回復プログラムを受けさせられる。「師団は大戦闘へ向かう準備ができている」とばかりに。
 戦争のかたちは無味乾燥で,その色調は灰色と赤である。戦場は狂気の荒野であり,そこでは,太陽の下で惨めに人は生きながらえるのである。夜には,疲れ切った縦隊が粉々になった街道の上を,焼け焦げた地平線へ向けて進んだ。廃墟と十字架が道の両側を埋めていた。歌は聞こえてこず,ただ小銃やスコップを留めるベルトの歯ぎしりのような音を交えた低く消え入るような命令の言葉と悪態だけが聞こえてくる。ぼんやりした影が踏み荒らされた村々のあたりから果てしない塹壕の方へと延びていた。
 かつてのように,軍楽隊が中隊を戦闘に導くような響きを奏でることはなかった。そのようなことは嘲笑の対象であったであろう。かつてのように,砲煙の中に軍旗が,砲弾で掘り返されたような陣地の上にはためくこともなかったし,朝焼けの太陽が,華々しい馬術競技や,騎士道精神溢れる剣閃や死を照らすこともなかった。月桂樹の葉が賞賛すべき者に冠されることも稀であった。
 しかし,それでもこの戦争にもやはり,人間とロマンティシズムはあったのである!その言葉が陳腐なものになっていないのであれば,英雄が。見知らぬ,頑固な仲間たちを,彼を嫌っていようと,衆目の前でその勇気に心酔させるような蛮勇の持ち主が。彼らは,死が深紅の騎士のように,その炎の蹄で揺蕩う霧の中を駆け回ってもなお,戦闘の嵐の中に独り,立ち続けた。彼らの地平線は砲弾痕のふちであり,彼らの支えは義務感であり,名誉と自らの価値観であった。彼らは恐怖に打ち勝った者たちであった。あらゆる恐ろしいものが最後の極点へと積み重なり,世界が血のように赤いヴェールで彼らを覆った後にも,敵をその目に捉えるために,(任務からの)解放が彼らにもたらされることはほとんどなかった。そのようにして,彼らはより容赦のない大いなる存在,機敏なる塹壕の虎や爆薬の専門家へと昇華するのである。そのようにして,彼らの内的衝動は洗練された破壊の手段とともに燃え滾るのであった。
 しかし,戦争の挽き臼は黙々と回るとしても,彼らは賞賛に値した。彼らは日々をカビの生えたこの世界の内的器官の中で,水滴を落とし続ける永遠の時計仕掛けによって苦しみを味わわされながら過ごしたのである。太陽が廃墟の作り出すぎざぎざの影の後ろに沈んだとき,彼らは暗い穴倉の瘴気から解放され,再び穴掘り仕事に従事するか,毎夜ごとに塹壕の土塁の後ろに鉄柱を打ちこみ,甲高い音を立てる曳光弾が冷たい銀色になるのを見ていた。もしくは,かちかちと音を立てる針金の上を,誰もいない無人の荒野へと忍び歩きしていた。時には突然の閃光が暗闇を破り,銃弾が飛び交い,不審なものへ誰何の叫びが飛んだ。彼らはこのようにして戦い,働き,粗末な食事をし,粗末な衣服を身にまとったのだ。忍耐強く,鉄をまとった死の日雇い労働者として。
 

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