時に,彼らは戻ってきては,街のアスファルトの上に夢見心地でたたずみ,よく見知った道の中で渦を巻きながら流転しているような生を,信じられないかのように観ていた。そして,短い日々の中で何もしていない時が片時もなく,酒を飲んでいるか何かをしているような日々に身を投じたのである。彼らは,乱痴気騒ぎの夜に,無謀なものとなったその生き方とともに,杯を揺らしたのである。彼らにとっての世界が意識の奥に没してしまうまで。そこで彼らは,死んだ戦友たちを心の中にとどめ,次の日に訪れるであろう災厄だけを気にかけていた。そして,彼らは再び,見知ったどよめきの巷へと駆け出したのであった。
 これが,戦争中のドイツ軍歩兵であった。彼らが何のために戦っていようと,その戦いは人間業を超えたものであった。その若者たちは,その民族を超越したのだ。彼らは,苦笑いを浮かべながら,「英雄」とか,「英雄的な死」といった使い古された言葉で書かれた,取るに足りない新聞の無駄話を読んでいた。彼らは感謝を求めたわけではない。彼らは共感が欲しかったのである。彼らにはいくら感謝しても足りることはない。聳え立つアルプスの頂に,重厚な鉄兜を身につけた像が刻まれている。その顔は静かに,じっと大地を見つめている。果てしない大海に注ぐ眼下のライン河を。そんな日がいつの日か来るであろう。

 大戦中,一兵士,そして部隊長として一人の兵士がとある有名な連隊の中で何を経験し,何を考えたのか,ということを読者にありのままに伝えることが本書の目的である。本書は,私の戦争中の手記をまとめたものである。私は自らの感じたことをできるだけありのままに紙に書き起こすことに苦労した。というのも,いかに記憶がすぐに消えてしまい,わずかな間にもはや当時とは別の印象を帯びてしまっているのかということに気付いたからである。前線での任務に向かう途中の休憩時間に,蝋燭の消え入りそうな光の下で,細長い坑道の階段の上やテントを張った砲弾孔の中,もしくは湿った廃墟の地下室の中で,山のようなノートを埋めていく作業は熱意を要した。しかし,このことは役に立った。私はこれによって,記憶の新鮮さを保ちづづけたからである。人間は,行いを理想化し,都合の悪いことや小さな出来事,取るに足らない出来事を隠し去ってしまいがちなのである。気づかぬうちに自らを「英雄」としてしまうのである。
 私は従軍記者ではないし,英雄伝を書くというわけでもない。私は,「いかにあるべきだったか」ということを書くつもりはなく,「いかにあったか」ということを書くつもりである。

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